
新高山城 登山 04/1/5(月) 広島県豊田郡本郷町
行程 約2時間半
JR本郷駅→両面地蔵→恵比須神社→本郷橋→道標「新高山小早川城跡道」→新高山城大手道
→本丸跡(標高197.6m)→銘水 沼田本郷の天然水→本郷町観光協会→JR本郷駅
新高山(にいたかやま)城 昭和32年12月11日 国指定史跡
竹原小早川家から本家沼田小早川家をついだ隆景は、副塁としていた沼田川対岸の新高山の砦を修復し、
天文21年(1552)高山城から新高山城に本拠を移した。新高山城山頂から沼田川流域や河口の展望が
よくきき、水運の便もよく、又、家臣の人心一新のため城替したといわれる。
古高山城は女山(なだらかな山)城を守るには侍360名必要、新高山城は男山と称し(鋭くそびえた峻厳な山容)
城はわずか75名で守れる。
新高山城は沼田川をはさんで高山城に対峙し、北側と東側は沼田川によって天然の濠をなしている。標高
197.6m、東寄りの中腹以上の斜面には岩石が露出し、いたるところに岸壁がそそりたち、するどく
そびえた峻厳な山容である。城の縄張りは東西約400m、南北約500m、内郭は頂上尾根や鞍部を巧
妙に活用して本丸・東の丸(ライゲンガ丸)・中の丸・井戸郭・西の丸・北の丸等が構築されている。外
郭は斜面の中腹から張り出したふたつの尾根を利用し、大手側を固める意図をもって巧妙に配設され、寺
跡の郭・鐘の段・東番所跡・八百の段・南番所跡・紫竹の丸・シンゾウスクルワ・西番所跡・大手道に対
する番所跡などがある。
これらの郭はすべて地山を削平し、また切削り、あるいは堀切り、必要な個所は石積みで補強し、随所に
帯曲輪や腰曲輪で結ばれ、又、箱薬研堀、空堀、堅堀を設けている。とくに近世城郭に関連する升形や升
形城門の採用が各所にみられる。三原城修造の際、この城の石垣の大石を残らず三原に運んだといわれて
いるにもかかわらず、まだ各所に石垣の一部が残存していること、又、山頂に近い井戸郭には、立派な石
積みの大井戸が七ヶ所あり、多勢の武士や婦女子が山上生活をしていたを物語っていることなど、中世か
ら近世への過渡期の、しかも大規模な山城として最も典型的なもので、中世の山城はもちろんのこと、近
世の平城研究にも欠くことのできない貴重な城跡である。
隆景は永禄10年(1567)ごろから三原城を前進基地として重んずるようになるし、後に移封によって
伊予の道後(湯築)城、筑前の名島城にと居城を移すが、この間も、新高山城を小早川氏の本拠の城とし
て確保した。しかし、慶長元年(1596)、三原を隠居所と定め、三原城を修造するに当り、新高山城
が壊された。
隆景は新高山城を45年間使用したが、永禄4年(1561)には毛利元就・隆元の父子が10日間滞在し、
会所、表座敷、裏座敷、高間、常の茶の湯の間などの建物で、連日、能楽や連歌、太平記読みなどを催して
饗応接待している。又、天正5年(1577)には南側中腹の郭に雲門山 匡真(きょしん)寺を建立し、
父元就の七回忌、母妙玖の三十三回忌の法会を執行している。
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登山道入口
城跡の絵図 |
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匡真(きょしん)寺跡には
御連歌 元就・隆景・隆元 |
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二の丸跡から
山陽自動車道と沼田川 |
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本丸跡から
古高山城跡を見る |
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本丸跡から古高山城を向いて
にらむ 不動明王。 |
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新高山城を背にして
とんど焼きの準備できてました。 |
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銘水 沼田本郷の天然水
地下100mの岩盤から湧き出る。 連日 沢山の人達汲みに訪れる。 |